勉強という贅沢な権利
私は今、この春小学五年生になる娘の為に、塾探しをしている。
塾というか、寺子屋のようなところがあったらいいのに、と思っている。
知的好奇心を育んでくれるような所が理想だ。
学校のテストの為の勉強ではなく、受験勉強でもなく、日常に起きる様々な事象を題材とする勉強。
そんな教育機関はないものだろうか。
本来は、生命の謎や、物事の仕組みに興味を持ち、それが医学や科学の勉強となっていたはずだ。
物事をわかりやすくする為の論理的な方法が算数となり、他者と自分との関わりを研究する過程で国語や哲学が生まれていったのだろう。
つまり、問いかけありきなのだ。
しかし、我が家の三姉妹を見ていると、問いかけが行動の原動力になっていると感じる事は、ない。
自分の所属する集団生活の中で、やらなければいけないとされている事を、こなしている毎日だ。
つまり、学校から出されるテスト勉強。
そして、受験勉強だ。
その勉強を求めているのは、誰なのか?
誰のための勉強なのか?
上の二人の娘は、それは綺麗事だという。
しかし、私は本気で思っている。
”何故誰かが決めた人生を生きるの?
自分の人生は自分で作っていいんだよ。”
私は、ウザがられないように、娘達に時々問いかけるが、なかなか向き合おうとしない。
考えるのが億劫になってしまっているようだ。
私はこのような現状を、大変残念な事だと感じている。
先日、小5になる三女と、就寝時のベッドの中で、話した。
”自分が死ぬ時の事を想像してみて。
その時、幸せだったな、と思える事は、何だろう。
それが、漫画やアニメやゲームだというのなら、いいと思う。
でもそれだけじゃ、死ぬ時後悔するかも、と思うのだったら、何をしているのが楽しいと思うのか、考えてみるといいと思うよ。”
三女は、死ぬ時だなんて怖い話しないで、と言ったが、”考えてみる”とも呟いた。
勉強は、させられるんじゃない。自分の知りたい事を知る為の、贅沢な行動なのだ。
こんな幸せな権利、自分で手放してどうする、と思う。
日常に溢れている様々な事象にスポットライトを当て、”何故?”を浮かび上がらせてくれる塾。子どもの興味を、その特性に合わせ、その何故と出会わせてくれる塾。
子どもの探究心の歩みを、一緒に面白がってくれる塾。
そんな塾があるといいな、と切に願う。