相手の出方を見る、という発想パターンの人
長女が、学校の課題の出し方が分かりずらいと言ってきた。
『英文を要約せよ』と言われたが、要約を英文で書くのか、日本語で書くのか、わからない、と言う。
先生に聞いてみたら?
と提案したが、いや、聞きたくない、と言う。
結局、日本語で要約して提出したようだ。
”もしこれで、英語で出せって言われたら、超イヤじゃない?”
うん、そうだろうね。
卒業に関わる課題だそうだから、本人も切実だろう。
でも確かめず、そのまま自分の解釈で事を進めた訳だ。
”もし違っててても、私のせいじゃないからね。分かりにくい課題を出した、向こうが悪いんだから。”
と娘は言うのだが、困るのは自分だろう。
先生に聞くのが嫌だったのか、聞く事自体が億劫だったか、娘に尋ねたところ、”分かりにくい説明をしているのは向こうなのに、何故こちらから聞かなくてはいけないのか。”
と言う返答が返ってきた。
う〜ん、こういうコダワリを持っているのね。
娘が特殊なのかもしれないが、案外、こういう発想の仕方をする人、いるかもしれないな〜とも思った。
大人になっても、感受性が子ども。
自分が大事にされているかどうかを、相手の出方をみて判断している、という要素もあるのかも。
私は、娘の発想パターンに口出ししようかと思ったが、実は思いとどまった。
そしてそれでよかったと思う。
大事にされている、と言う実感が欲しいだけなのだ、きっと。
そこに着地した。