向き合い日記

仕事に子育てであっという間の日々。気がついたら50代。色んな事と向き合う事が楽しくなってきたという日記です。

中学受験塾を辞めて、これから先の懸念

ついに進学塾を辞める事にしました。

小4の三女の話です。

中学受験はしないと本人が決めたので、致し方ありません。

 

通っていた進学塾は、とにかく授業が面白かったようです。

毎回ご機嫌で帰宅。”楽しかったーー!!”という彼女の満面の笑みが、授業の充実度を物語っていました。

 

毎週の復習テスト。

ちらっと覗くと、お、お〜、結構難しい^^、

 

学校で習ってきた知識だけでは、多分解けない。

どの教科も、ググッと踏み込んだ内容。

難しいというだけでなく、パッと見すぐには出来なさそうな問題。

知的好奇心を発動させないと、こういう問題、解けないだろうな〜。

逆に言うと、知的好奇心をくすぐる楽しい授業をしているんだな、と言う事がわかります。

 

だから正直、こういう授業を受けさせたかったな。

でも、中学受験をしないのだったら、いずれ塾の方向性と自分の方向性が、合わなくなってくる。

自分の立ち位置がわからなくなってくる可能性も、ある。

 

だから、残念ながら、退塾手続きをしました。

 

そしてこれから増える事になる、家での自由時間。

さて何をして過ごす?

 

予想されるのは、動画、ゲーム、漫画。

何故なら、我が家の環境がそうだから。

 

年の離れた二人のお姉ちゃんだけでなく、父親も、動画と漫画。

 

私はいつも、嫌だな、と思っている。

でも主人は、漫画からも学ぶ事あるよ、と言う。

 

それはそうだろう。

ただ、それはある程度年齢のいった人の話だよね。

 

小学生時代に、動画・ゲーム・漫画にハマっていたら、それ以外のものに楽しみを見出せなくなってしまうと、私は危惧する。

 

大人がこどもにしてあげられる一番大切な事は、環境づくりだと思う。

 

でも、我が家ではそれが叶わない。

とても残念な事だと、思う。

頑張った自分にご褒美を🎁

先日、自分にプレゼントしました。

 

新宿の伊勢丹で出会ってしまった、温かみのあるパステルカラーの器。

一月が誕生日だったので、自分への誕生日プレゼントという事で^^

 

ここ2年ぐらい、器買ってなかったな〜。

この器があったら、気分上がるだろうな〜と思いながらも、結構いいお値段だったので、即決はせず。

 

数日気持ちを熟成させて、それでも欲しければ買おう。

そう思っていたら、益々欲しくなり。

 

食器は、衣食住という、生活の重要な要素を彩る、大切なアイテム。

うん、買おう。買っちゃおう。

 

いそいそと伊勢丹に赴き、改めて見たら、なんと5色展開。

五人家族の我が家にピッタリじゃないか!

 

めちゃくちゃ幸せな買い物を、させて頂きました。

 

初おろしは、サラダ。

う〜ん、絵になる。

 

二度目は、おでん。

Oh!It's ネオ Oden!

 

このお皿を使う度に、幸せな気持ちになるだろうな^^

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リーフサラダ

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5色展開

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このパステルカラーめっちゃ好き💓

 

勉強という贅沢な権利

私は今、この春小学五年生になる娘の為に、塾探しをしている。

塾というか、寺子屋のようなところがあったらいいのに、と思っている。

 

知的好奇心を育んでくれるような所が理想だ。

学校のテストの為の勉強ではなく、受験勉強でもなく、日常に起きる様々な事象を題材とする勉強。

そんな教育機関はないものだろうか。

 

本来は、生命の謎や、物事の仕組みに興味を持ち、それが医学や科学の勉強となっていたはずだ。

物事をわかりやすくする為の論理的な方法が算数となり、他者と自分との関わりを研究する過程で国語や哲学が生まれていったのだろう。

 

つまり、問いかけありきなのだ。

しかし、我が家の三姉妹を見ていると、問いかけが行動の原動力になっていると感じる事は、ない。

自分の所属する集団生活の中で、やらなければいけないとされている事を、こなしている毎日だ。

つまり、学校から出されるテスト勉強。

そして、受験勉強だ。

その勉強を求めているのは、誰なのか?

誰のための勉強なのか?

上の二人の娘は、それは綺麗事だという。

しかし、私は本気で思っている。

”何故誰かが決めた人生を生きるの?

自分の人生は自分で作っていいんだよ。”

 

私は、ウザがられないように、娘達に時々問いかけるが、なかなか向き合おうとしない。

考えるのが億劫になってしまっているようだ。

私はこのような現状を、大変残念な事だと感じている。

 

先日、小5になる三女と、就寝時のベッドの中で、話した。

”自分が死ぬ時の事を想像してみて。

その時、幸せだったな、と思える事は、何だろう。

それが、漫画やアニメやゲームだというのなら、いいと思う。

でもそれだけじゃ、死ぬ時後悔するかも、と思うのだったら、何をしているのが楽しいと思うのか、考えてみるといいと思うよ。”

 

三女は、死ぬ時だなんて怖い話しないで、と言ったが、”考えてみる”とも呟いた。

勉強は、させられるんじゃない。自分の知りたい事を知る為の、贅沢な行動なのだ。

こんな幸せな権利、自分で手放してどうする、と思う。

 

日常に溢れている様々な事象にスポットライトを当て、”何故?”を浮かび上がらせてくれる塾。子どもの興味を、その特性に合わせ、その何故と出会わせてくれる塾。

子どもの探究心の歩みを、一緒に面白がってくれる塾。

そんな塾があるといいな、と切に願う。

 

負のエネルギーを昇華させる方法

私が娘たちにリクエストしているルールは、「人の悪口を言わない」。

なのだが、だからといって、それが守られている訳ではない。

そこも織り込み済みで、敢えて、伝えているのだ。

 

昨日も、◯◯ちゃんの嫌なところを、次々にまくしたててきた。

 

気を遣って話さないとすぐに気分を害するんだよ、とか、

先生もその子に気を遣ってるのがおかしいと思う、とか、

仲間に入りたいんだったら、自分から入れてって言えばいいのに。

言えないくせに誘われないと嫌がらせしてくるんだよ、とか。

 

うんうん、そうなんだ〜。

ひとしきり頷きながら聞いて、私は言う。

”あなたはどういう状態になるのがいいと思うの?”

”どういう状態になったらあなたは嫌な感情がなくなるのかな?”

 

他人を変える事は出来ない。

出来るのは、自分がどうしたいのかを知る事だ。

 

その◯◯ちゃんに限らず、これから先も、嫌な事、嫌な子は、いくらでも出てくる。

その度に、心を疲れさせるの?

 

大切なのは、嫌な事象に出会った時、自分がどうしたいのか、を考える事だと思う。

 

今回の例で言えば、

・気分を害されるのが嫌なのかどうか、自分の心に聞いてみる。

”まあいいや”だったら、気を遣わずに、率直に声をかけてみる。

”いや”だったら、気を遣って声をかける。

 

・先生が◯◯ちゃんに気を遣ってるのを見ると嫌な気分になるのは何故?

”特別扱いされてる子がいると落ち着かない”のかな?

”私にも気を遣って欲しい”からなのかな?

先生には、”特別扱い”という行為を訴えるのではなく、その行為を見て自分が感じる事を伝えたらいいんじゃないかな。

 

なんていう話をしてみる。

小4の娘は、う〜ん、と唸って、そのまま。

考えたのか、どうでも良くなったのか、わからないが、もうスッキリとした顔で別の話を始めている。

 

◯◯ちゃん絡みのゴタゴタは、きっと今日も続いているのだろう。

又、娘は負の感情を私にぶつけてくるだろう。

そして私はいつものように、自分との向き合いに置き換えて話すのだろう。

このやり方が正しいかどうかわからないが、今の所私は気に入っている。

 

負のエネルギーを抑え込むのではなく、違う形で昇華させていく。

語弊があったら申し訳ないのだが、トラブルは、刺激だ。

刺激を受ける事で自分の求めている物を知り、そこにフォーカスしていく。

ごまかすのではなく、この世で起こる事象に対し、自分はどうしたいのか、を考える事で、見える世界が全く違うものになるのではないかと思っている。

 

 

 

ある朝新聞記事を目にした娘は・・・

数日前の事。

仕事から帰宅した私に、小4の娘が、恐る恐る言ってきた。

顔がこわばっている。

”ママ、黙ってここ読んで。”

朝無造作にテーブルに置いておいた、朝日新聞の一面記事。

ミャンマー国軍の弾圧により命を落とした女性の事が書かれていた。

今風の可愛いメイクをして、彼氏とポーズをとって、微笑んでいる。

 

最初娘はきっと、”このこ可愛い!”と思い、そのまま記事に目がいったのだろう。

何せ彼氏のいる可愛い彼女像に興味があるお年頃だ。

 

でも、記事を読んで、きっと愕然としたに違いない。

ふわふわと夢見心地だった好奇心が、戦慄にとって代わったのだろうと推察する。

 

社会と向き合う瞬間は、きっとこんな形で訪れるのが自然なのだろうと思う。

教育されるのではなく、理屈を教えられるのでもなく、自分から、見つけてしまった!!

という瞬間。

 

日本はとても平和だ。

毎日、新聞の国際欄で目にする弾圧や内戦、侵攻という文字。

日本の社会では、少なくとも直接的に身の危険を感じるような、これらの危機感は、ない。でもだからといって、それでいいというのか。

自分に関わりがなければ、見なくていいのか。

危機が迫ってから考えれば、いいのか。

 

我が家の三姉妹は、社会を見ようとしない。

男性アイドルや、アニメや、漫画の世界にぬくぬくと浸っている。

私はいつも、そんな状態にイライラしていた。

 

社会に興味を持ってもらいたい。

自分達の未来、世界の未来を考える人になって欲しい。

でも、押しつけにならずに伝える方法は何だろう。

私はいつも模索していたように思う。

 

そこに冒頭の、小4娘のあの台詞だ。

私は、心が揺さぶられるのを感じた。

”見つけたんだね。自分で。

社会を知る入り口に立てたね。

やはり君は見つける人だ。”

 

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ミャンマー国軍の弾圧によって命を落とした女性

 

鬼は外!=感情のアウトプット〜過去編〜

昨日の続きからはちょっとそれるけど。

過去の日々が私を呼んだので。

 

子育てにおいて、現在感情のアウトプットを大いに推奨する私。

しかし、昔はそうではなかった事を思い出した。

我が家の三姉妹は、皆昔からアウトプットが上手だったというのに。

二十歳になる長女は特にそうだったな、と思い返した。

 

昔の私は、子どもの感情をコントロールしようとしていた。

”今はそういう時じゃないよ”とか、

”皆んながやってるのに、なんでやらないの?やるのが当たり前じゃん”とか。

私はその時、気づいていなかったのだ。

昼も夜もある仕事。家事、子育て、どれもしっかりやらなくちゃ。

目の前の事をこなしていく事が最優先。

一日が無事終わる事が、最良だと思っていた。

目に見えるものしか、見えていなかった。

目に見えないものの重要性に、気づいていなかった。

人間の中に湧き出てくる鬼の部分について、わかっていなかった。

『鬼は外!=感情のアウトプット』の手助けを、長女の幼少期には、やれていなかったのだ。

申し訳ない事をしたと思う。

 

もうすぐ節分。

三姉妹揃って行われる、毎年の豆まき。

今年は、私はこっそり意味を持たせて、大いに行いたいと思う。

”鬼は外!福は内!”

 

今からでも遅くない。

存分にアウトプット出来る家にしていきたいと、思う。

 

 

鬼は外に出そう!〜アウトプットが大事だと思った話。小4娘編〜

小4もそろそろ終わりに差し掛かる今日この頃。

娘との就寝タイムは、彼女のお悩み相談の時間と化している。

 

担任の先生に対するモヤモヤ。

クラスでの出来事に対するモヤモヤ。

 

最初は、うまく表現できていなかったのかもしれない。

でも最近、気持ちを素直に吐露してくれるようになってきた。

 

この特別な時間には、”お母さんは、何でも聞くよ”というスタイルだ。

ルールは一つ。人を、悪く言わない。

悪口を言いたくなった時は、こう考えてみる。

どうして嫌だと思ったのか。

自分はどういう状態にしていきたいのか。

 

悪口は、増長する。

無益だ。

 

”どうして嫌だと思ったのか。

自分は何を望んでいるのか。”

 

それを言えた時、めちゃくちゃ褒める。

すごいね!!

自分の気持ちに正直になれるって、すごい事だよ!!

そんな◯◯ちゃんのお母さんで、本当に幸せだな〜って。

 

子どもの前から問題を取り除いてやる事は出来ない。

ただ、アウトプットさせるお手伝いは、続けていきたいと思う。

 

鬼(負の感情)は外に出してしまえば、大抵の事は、うまくいく。

外に出した後の、続きについては、また次回。